中野崇 大学生時代にバックパッカーから学生起業....

(1999年ごろの京都経済新聞取材記事より)

■学生生活の脱力

中野が借りてきたビデオは、「スワロウテイル」という名の映画。アジア人が、日本にやってきて必死に生き延びようとする姿を描くものだ。「必死に生きようとするから非合法のことも平気でやる。逆にそこまで生きようとするエネルギーを感じた」(中野)。



1996年、中野は京都の私立大に入学した。入学直後、さまざまなサークルを経験してみる。ところが、いずれも面白くない。大学の授業でさえ身に入らない。

中野は中学、高校と「卓球少年だった」。明けても暮れても卓球の練習に打ち込んできた6年間。それが大学生活では一転して熱中できることを見つけられなかった。その理由を中野は「真剣でなかったことが原因だと思う。サークルも遊び。一方、卓球は相手がいて、真剣にやらないと負けてしまう。そういう真剣味を感じられる場があまりにもなかった」と振り返る。

そんなことを感じているときに観たのが「スワロウテイル」だ。「アジアに行ってみたい」――。中野の生活はそれから一変した。高額の報酬が得られる日雇いや短期間のアルバイトに没頭した。帰宅すると、閉店時間が迫ったスーパーへ。閉店ギリギリまで粘って、売り切りのために値引きされた弁当で食費を節約する。そうして2、3ヶ月ほどで貯めたカネを握ってアジアに飛んだ。



■たまたま見た雑誌

1ヶ月ほどインドやネパールなどに滞在して帰国。また短期のバイトを探して食費を切り詰める。2、3ヶ月ほどして貯めたお金を元にまたアジアに飛ぶ。そんな生活が半年ほど続くうちに「帰国してから次の旅費をためるための短期バイトがだんだんしんどく感じる」ようになってきた。短期間に旅費を貯めたかったため、肉体労働がメインになっていたからだ。「何とかして楽にアジアへの旅費を捻出できないだろうか」。

旅費を捻出するためのヒントはあるときたまたま見た雑誌にあった。「輸入T-シャツのネット通販をしてるイージーの岸本栄司さん(KRPスタジオ棟)のインタビュー記事が載ってたんです。その記事を見て『ネット通販をやってみよう』と考えた」。

97年の6月ごろ、パソコンを購入。届いたダンボールの箱を開けると、「光が溢れ出てくるような」雰囲気を感じた。「そのとき、直感的に自分の将来の扉から光が溢れてくるよう感覚になったんです」。
貯めたカネを手に、ネパールに行く。そこで地元の手工芸で作られたペンケースと紅茶のパックを10数個購入。帰国後、ホームページを立ち上げ、ペンケースにオマケとして紅茶のパックをつけてセットとして販売を始めた。

ところが、客から「ペンケースと紅茶のセットではなく、単品で売って欲しい」との要望が相次ぐ。ペンケースと紅茶をそれぞれ別売りにした瞬間、オマケだったはずの紅茶だけが売れ、ペンケースはすべ売れ残った。「とにかくアジアへの旅費を稼ぐことが目的だったから、悪く言うと何が売れてもよかった。岸本さんの記事に商品は特化したほうがいい、とあったから売れた紅茶を扱おうと決めた。それで、次から完全に『紅茶専門店』ということにしたんです」。

■マンネリ感からの脱却



その後も、バイトをしながら飛行機のチケット代と滞在費、そして商品の仕入れ代金を貯める生活が続く。ネパール、インド、中国のアジア各国に行っては商品を仕入れ、帰国後にネットで売る。紅茶専門店として通販を始めて1年後、月の売り上げが100万円を超えた。「その頃からやっと紅茶の通販で、海外への渡航費、仕入れ代金、そして自分の生活費までを出せるようになってきた」。

中野の“仕入れ旅行”はこんな風に進む。まずネパールやインド、中国など紅茶の産地がある現地に飛ぶと、卸売りと小売りを行っている茶商の店に行く。バックパッカーのような身なりで行くため、旅行者として紅茶を買いに来たような形になる。そこで、店主とあれこれ世間話をしたり、紅茶の話をしたりする。「その時に、その店主の人物を見るわけです。いい人であれば、必ずいい茶園と契約していい茶葉を仕入れている。そして仲良くなって、少しずつ、そして売れてきたらいっぱい仕入れさせてもらう」。

ネットで仕入れた紅茶を販売するとき、紅茶が売れる秘訣は、中野が書く仕入れ旅行記にある。仕入れでであった茶商や店主、そして茶葉農園の農園主などとの出会いをリアルにそして克明に描くメールマガジンを発行しているのだ。「メルマガの最後に注文書が付いている。メルマガ経由で購入してくれるお客さんが大半を占める。単なる紅茶に旅行記があることで、お客さんにとって付加価値が断然高まるわけです」。これまで紅茶を販売した客数は延べで1万人に迫るほど。売り上げも年間に3,000万円に達するようになってきた。この客のおよそ8割から9割がリピーターだ。

■紅茶が好きになった

順調に進んできたように見える中野の紅茶通販事業も、もちろん紆余曲折があった。一番大きな曲がり角は、「事業売り上げが安定してきたからこそ、通販が『こなすべき仕事化』したと感じるようになったこと。3年ほど、マンネリになったのではないかと悩んでいた」。

このマンネリ感から脱却するきっかけとなったのが、紅茶を購入した客から寄せられるメールだった。これまでに考えていなかったような視点から自分が仕入れた紅茶を楽しんでいる様子を伝えてきてくれる。「自分自身もお客さんと同じように紅茶を飲んでみると、お客さんが何を楽しんでいるのかが分かるようになった。事業を始める前は全然紅茶を飲んだこともなかったが、最近は自分も紅茶自体が好きになってきた」。

「これから自分の目の前でできることをきちんとやりつつ少しづつ売り上げを延ばしていきたい。そして一定程度の資金を貯めた上でやりたいことがある。何をやりたいって?それはまだ秘密です」。(敬称略)

ー以上、1999年ごろの京都経済新聞取材記事よりー

ーーー以下、補足ーーー

京都経済新聞は、かつて京都にあった新聞社でいまはもうありません。たしか週に1回ぐらい発行していて、1999年当時はネットベンチャーブームだったので、ネットベンチャーの記事が出ることも多かったです。

京都には大学生が多くいて理系の学生もおおかったのでITブームで起業する学生も多くいました。そのときに起業して今は大きくなっていった会社も多くありましたが、ほとんどの学生の会社は2000年のネットバブル崩壊と同時期になくなったりしていきました。インターネット通販は黎明期は関東よりも関西の会社のほうがさきがけてやっている人が多かったのですが、時間がたつにつれてインターネット通販の中心も東京にうつっていきました。

関西の起業家は大企業を作るよりも、個人的な会社を作って人生の時間も大事にしている人が多かったように思います。